蝉の声に原稿執筆を焚きつけられながら、今日も御茶の座のご報告。

こんにちは、式部ムラサキです。
熱風に背中を押されながらカフェに避難してきました。皆さんの暑さ対策を教えて欲しい今日この頃。十二単なんか着てられねえぜ!(キャラ付けに苦労してます)。

他の方が季節に負けない位アツい叫びをする中、私はどこまでもフラットな姿勢でありたい。
ここはいつでも平安の風が吹いている…。


8月1日に新宿で開催された御茶の座。参加者は8人ほど。
前回のご報告では、自己理解と他者理解を促すためのイベント」だと説明したと思います。(もちろん、大前提として「参加者がありのままでいられる場」である事が一番大切なわけですが。)

今回は折りよく、会の主旨のひとつを掘り下げるようなテーマでした。

すなわち、そもそも自己理解をする意味って何?という話題です。
この理由を考えてみた事がない人も実は多いのではないでしょうか。

今回は、アウトロー採用の参加者はもちろん、それぞれの個人に自己理解がどういうメリットをもたらすのか考えたいと思います。

表題はズバリ、

♦自己理解ノススメ <自己理解⇔他者理解>

です。がんばるんば。
以下本編でござい。(※会に流れる雰囲気は、悠さんの記事をご覧いただくとより分かると思います)


自己理解に必要な「場」 -私とあなたとみんなでレリゴー編-

―3つの前置き的なもの―

 1.「私」を理解する私

あなたは今まで、

「私は今、一体何を考えているのか。感じているのか。

という視点で自分自身を捉えた事があるでしょうか。
私はしばしばよく、こうした観点で自分を照らしてみる事があります。

一人で電車…いや牛車に乗っている時や、ゆっくりご飯を食べている時、歩いている時。

要は、自分自身が保たれる、非常にリラックスした状況においてという事です。

当然ですが、何かに追われていたり緊張している状況で、自分の事を考える余裕なんか生まれる訳ありません。平安の貴族が蹴鞠をしている時に「麿は今どういう気持ちで浮麗(プレイ)をしているのか…」なんて思いを馳せるでしょうか。絶対球を落とさないよう必死なはずだ。深刻な面もちで蹴鞠している人なんて、いくら平安の世に生まれついた私でも滅多にお目にかかれません。お察しの通り、すでにキャラ付けが相当苦しいわけですが、まあそういう事です。

人が自分の事を考える時というのは、ある程度静かな空間だったり、体の緊張しないリラックスした場が確保されている時です。
そうして初めて内省の海に沈み、自己への問いに向かって自分を泳がせることが出来るのです。

 

2.「私」を理解するための「あなた」

しかし、更に一歩踏み込んだ自己理解の為には、他者の存在が必要になるのではないだろうか。

自分の中で自分自身について問いかけていても、ある一定のところまでいくと壁に当たってしまうでしょう。
一体どうすれば先に進めるのか。それは、己と異なる存在に直面する事に他なら無いのではないでしょうか。

つまり、他者と対面して自分と比較する事で初めて、「自分」を捉える事ができる、という事です。

例えば、「」が部屋にいたとしましょう。
周りは鏡張りです。自分が右手を挙げると、鏡の人物も右手を挙げます。そうした行為を重ねて、段々とこれが「」なんだと人は認識できます。ただ、そこで認識する「」は、単なるひとつの「」というイメージでしかありません。男なのか女なのかさえ知らないまま。具体性に欠いた自己への理解しか得られないでしょう。

外に出てみます。広がる風景の中で、「他者」に出くわしました。
私の知っている「」とは全く異なる風貌です。この人は体が大きくて固い、声が低い、体のつくりも物事の捉え方も、まるで違う。
こうした差異を認めていくうちに、この人は男で、私は「女」という存在なのだと、その時初めて知る事になるでしょう。

日常生活においてもこうした自己認識は常に行われています。
異質なものに触れれば触れるほど、「私」が明確になっていく。自意識が育っていく。

つまり、他者と触れる機会が多ければ多いほど、またコミュニケーションの密度が濃ければ濃いほど、それだけ深い自己理解に繋がる訳です。

 

3.「あなた」を理解する「私」

では、自意識が発達していく事で、何が起こるのでしょうか。
もうここまで読めば分かると思いますが、「他者」をより深く理解していくようになる、という事だと私は思います。

「私」がどういうものかを知ると、他者と対面した時に、自然と「私との違い」に焦点が当たる事にならないでしょうか。
早い話、「私」をすでに理解しているからこそ、他者の異なる点がどんどん見えてくるという事です。私は家で本を読むのが好きだけど、この人はよく外に出て活動している…ああ、彼はアクティブで行動するのが好きな人間なんだな、みたいな。
自分の引き出しが多ければ多いほど、比べる要素が増え、他者の事も細かく見えるようになってくる気がする。少なくとも私はそうです。

と、上記まで色々書きましたが、要は自己理解には他者が必要で、他者理解には自己が必要であるという事が言いたかったのです。他人を知るほど自分を知り、自分を知るほど他人を知る。こうした相関的な関係は、まるで渦の中心に呑まれていくように、自己の内部へとその人を導くようになっていく。

表題の自己理解のススメ自己理解⇔他者理解〉というのは正しくこの事を指している訳です。

――――――――――――――

―考察的なもの―

★アウトロー採用参加者の自己理解のレベルは?

と、ここまで色々前置きがありましたが、果たして参加者の自己理解の程度は現時点でどのくらいなのでしょうか。残念ながら、私はまだ数人としか対面して話していないので、その範囲での話になってしまうのですが…。

結論から言います。

私から見た感じですが、めちゃくちゃ高いです。
これだけ自照性の高い人が、一つの場所に集まる光景はそんなに見られないと思う。とにかく初回から、皆さん自分の事をばんばん話せるのです。

しかも、参加者の他の人に対する理解のレベルもとても高いです。誰かが自分の話をすると、それに付随して、他の人が相手への印象をどんどん語り出して止まりません。皆さん、ものすごく相手や周りを観ています。

例えば、

A「Bさんは、前に進むことに強迫観念を駆り立てられてる感じ。高い理想に追いつけない自分に苦しんでそう」

B「その通りな気がするけど、どうして?」

A「前に一度話したときに、成功している大人の喋り方を真似てるなって感じた。言うことがキレイすぎるって」

B「…すげーなこの場所」

こんな感じで脱がされます。
いえ、もちろん強制的なものではありません。お互い程度を配慮しあってます。そして脱がされた後は何だか気持ちいい…らしい。

このように、他者からの「予期せぬ問い、答え」に揺さぶられる事で、気づかなかった自分に遭遇する機会が、圧倒的に増える訳なのです。

 

★自己理解のメリットって?

「自分の事が分かる」というのは、要は自分の武器が何か知ることができるという事です。

私には何ができるのか、何に興味があって、どういう事が不得手なのか。
自分の素材を知ると言うこと。それを理解していると、対人関係においても己から何を引き出せばいいのか自ずと分かるようになります。どのような場面でも、目の前の相手に合わせる事は必要だと思うので…。

ここで留意してもらいたいのは、いわゆる一般的な「空気を読む」とか、迎合するという意味ではなく、呼吸を合わせる」という感覚だということです。
相手がどういう人間で何を求めているのか、場において自分がどういう役回りを負うべきなのか…それを常に感じて考えなければならないと私は考えています。知性とはふさわしさの事を言うのだ。

アウトロー参加者も今後企業とのマッチングが控えています。
もちろん、どうしても譲れないところや、自分自身を語る事はとても大切です。けれど採用者もひとりの人間ですので、どこかしら「呼吸を合わせる」事が、必要になるのではないでしょうか。でないと学生としても、それこそパフォーマンスでもって「優等生」ぶらなければならなくなる。どう自分を出せばいいのかなんて分からないだろうから。

そしてもちろん企業&学生のマッチングのみならず、私生活においても自己理解は有用です。
何度も言ってるように引いては他者理解につながるので、相手との信頼関係を築く事につながると言えるのではないでしょうか。友人であっても恋人であっても、相手を観て受容しあう姿勢がないと中々うまく行かないでしょう。

まあ極端な例ですが、

「私のことどう思ってる…?」

「めけけ!」

こんなやりとりで信頼しあえるだろうか。これで通じ合えるならむしろ結婚すればいいと思う。

 

★結局「御茶の座」ってなに?

自分の素材を知るためには「外」-つまり他者との本気の接触が必要です。お互いがありのままで自分をぶつけあったり、引き出し合ったりできるためには、安全が保証されている(自己開示しても深刻な傷の残らない)リラックスした場が必要となるでしょう。

いわば御茶の座というのは、人がありのままでいられる場であるという事はもちろん、同時に対人関係の流れを生みだし自己理解(⇔他者理解)を促すために設けられた有機的な場なのです。だから企画側もテーマなど設けず、参加者の自由を可能な限り守らないといけない。来るべき時のために、訓練する必要があるわけです。

こうした機会というのはとても貴重ですし、可能なだけ時間を作っていく必要があると思っています。社会に参入した後では難しい。色々な意味で。

 

★まとめ的なあれ

色々書きましたが要するに、

☆どこでも場や人にふさわしい「自分」を引き出す必要がある

☆自分を理解するにはリラックスできる場と他者との本気の接触、対話が必要

☆それを実現することを一つの目標として「御茶の座」は設けられている

という事です。
ですから、自己分析テストのように紙を相手にしてても自分の事なんてほぼ分からないと思います。「外」と接触して何かを体験したり、ある程度の泥臭い対話を通さないと、自分の事なんて理解し得ないであろう。

でも外と接触って何だか大層な話だし、海外とか行かないといけないの?億劫だなあ…と思う方。
手軽に「外」を体感する方法があります。

すなわち、人の「顔」を見ることです。FACEです。そのまんまだけど。

つまり、例えば目の前の人物が、己の予期せぬ時に微笑んでいたり、怒りの表情を浮かべていたりする時、その表情には純粋な「他者性」が潜んでいるわけです。他者が他者であると知らしめられる。私の全く予想してない瞬間、動機によって、他者が思いも寄らない表情をしているという体験が誰にでもあるはず。その時に、自分“対”他者を実感する事になるでしょう。

今まで意識した事がない人も、自分と他者との関係性について考えてみると、何か新しい発見があるかもしれません。


余談

そういえば、今回のテーマを体現するような質問を個人的に投げつけられた事を思い出しました。

「率直に聞くけど、あなた何者?

御茶の座の冒頭にて。
参加者がまだ集まりきってない時、ひとりでサンドイッチを食べていたら先に到着していた「彼」に尋ねられました。チャットでは見知っていたけど、対面するのは初めて。
私はちと逡巡して、「何者に見えますか?」と返しました。はい、もっとも無難な回答です。面食らった3割面倒くさい7割でしたわ。
私が、私の事を一言でどう形容するのか知りたかったのだろうか。つまり、私の自己理解を、私自身の口から引き出そうとしたのかと勝手に推測しているのですが。
まあ、それは「彼」に聞いてみないと分からないことです。しかし幕開けらしい一言よ。

ここで「成らず者です」とか答えておけばお茶目でいい感じだったなあと今更後やんでいる…。

―――――――――――

もう一つついでの余談。
この間久々にお酒を飲みました。友人とお気に入りのお店に行ったのですが、お酒が安いわ旨いわ、彼女もかなり飲む人なので自分もつられてぐびぐび。
そして帰り道、決まっていたかのように事を起こしました。きっと前世はマーライオンだった。

お酒を飲める年になってから結構経つのに毎度この繰り返し。

全然自分の事分かってない、と思いました。素直に。

頑張ろう、自己理解。

そんなしょうもないオチをつけて、さっさと退散します。