キャリア壊滅隊という謎、或いは僕らの履歴書

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

これは印象派のポール・ゴーギャンがタヒチで描いた絵のタイトルだ。

彼はタヒチ旅行から大いに想を得て、その才能を発揮させた。興味がある人は彼の画集を年代順に見てみるといい。きっと、彼の才能の開花を理解できるだろう。

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか?

これこそ、僕たちの誰もが持っている問いなのではないだろうか?

僕たちはみな、いくつかの問いを持ち、その答えを探している……。

この事実に疑いを持つ人は少ないのではないだろうか。

さて、僕はこの場を通じて一つの問いを探求したいと思う。

すなわち、キャリア壊滅隊とはいったいなんなのか?

キャリア壊滅隊はどこから来て、何者であり、そして何処へ行くのか?

おそらくは、誰も――発起人も含めて、理解してないであろう、この組織の

謎に迫りたいと思う


キャリア壊滅隊。

このブログのタイトルにもなっている、それは2015年6月6日にLINE上のグループとして発足されたと思われる。

思われる、と曖昧な言い方をするのは単に情報が不足しているからだ。それ以上の理由はない。

発起人は第二回アウトロー採用に参加しているK氏。

彼は第一声に「芥川龍之介は鵠沼に住んでたらしいぜ」と発言して、このグループを立ち上げた。(なお、この発言の意図、内容、その他は今現在においても謎に包まれたままだ)

以来、キャリア壊滅隊はLINE上で活発に活動を行っている。面白いバイトの情報から、憲法改正の話まで活動のバラエティーは非常に豊かだ。

聞くところによると、一晩の間で二三百件のチャットが飛び交っていたらしい。参加していなかった者にとっては堪らない迷惑な話だ。

このように言ってみれば、キャリア壊滅隊とはアウトロー採用の参加者で雑談をするために作られたグループの名前であるように思われる方々も居るかもしれない。

はっきりと、それは誤解だと言っておこう。

キャリア壊滅隊はK氏が勢いで作ったグループであり、そのメンバーは言わば自然発生的に集まっている。

決して、雑談や親睦を深めるといった目的意識などは共有していない。あるのはただ、「ゆるい繋がり」だけだ。


アウトロー採用やキャリア壊滅隊を理解する上で欠かせないワードを一つ挙げるなら、「ゆるい繋がり」という言葉がでてくるかもしれない。

この「ゆるい繋がり」という言葉は経営学にも存在する。なんでも成功した起業家は家族や同僚などの親しい人物ばかりではなく、社外の人間や経歴のことなる人など、多数の相手と「弱い絆」も維持してきたんだ、とか。

特定の目的のない、相互作用的な人的ネットワークは情報エントロピーに満ちているため、つまりは選別されることがないまま、情報が入ってくるため、こうしたネットワークに関係していない人々よりも三倍は独創的になる、らしい。

この「ゆるい繋がり」という言葉。元は社会学の言葉であるらしく、グラノヴェッターという社会学者の論文に出てくるとかなんとか。気になる方は東某などよりも、この学者の著述にあたるといいだろう。

さて、キャリア壊隊はその発足経緯からも、この「ゆるい繋がり」を重要にしている。この価値観はアウトロー採用の企業セッションにも如実にでているのではないか、と思う。テーマ性のない会話こそが最もキャリア壊滅隊らしい。


一説によれば、キャリア壊滅隊とはキャリアが壊滅している者たちの集まりらしい。

僕たちはみな既存の就職活動に適応できずにやって来た人間たちだ。キャリアが壊滅している者の集まりという言葉は一面では正しいと言えるだろう。

では、どうして僕らは既存の就職活動に適応できないのか?

スーツが気持ち悪いとか、単純に上手くいかないとか、そういう理由は表面的なものだと思う。アウトロー採用の参加者の大半は真面目で常識的で、アウトローであることを嫌っている。

そもそも、アウトローであることを肯定するなら、アウトロー採用のサービスなんかには集まってこないだろう。アウトロー採用は就職することが、つまり、アウトローでなくなることが目的なのだから。

おそらく、僕らが求めているものは「目的なき合目的性」なのだと思う。これはかの有名なイヌマエル・カントの言葉だ。『判断力批判』に詳しい……らしい。あいにく、僕は未読であるため、この概念の正確なところを理解していない。

とはいえ、僕は「目的なき合目的性」という言葉に無上の魅力を感じる。僕たちは決して目的を、あるいは問いを持っていないわけではない。ただ、それを明確にすることができない。誰かに説明することができない。

だから、適応できないのではないか、と思う。

僕の経験した限り、就職活動で重要なのは目的だと感じた。「志望動機」、「自己PR」。この二つのワードには目的という言葉が薄皮一枚を隔てて、パンパンに詰まっている。自分の目的を説明することのできない僕たちは、目的を尋ねる声に応えることができない……。

一方で合目的性はどうだろうか。

おそらく、この単語が上述のカントの言葉を難解にしていると思う。目的という言葉がわからない人は少ないだろう。

人間は誰しも合目的性を備えていると言えるだろう。僕たちが生きているのは疑いもなく死ぬためであると言えるし、それを否定することはできない。なぜならば、死なない人間は居ないのだから。

それにも関わらず、僕たちは「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というような問いに答えられない。それは僕たちは自身の目的を明確していないからだと言える。

つまり、「目的なき合目的性」というのは、目的がなくても進んでしまう僕たちの人生を描写している言葉だ。なにをしても、なにをしなくても、僕たちは死という合目的性を持っているし、それから逃れることはできない。

では、僕らが求めている「目的なき合目的性」とはなんなのか?

それを陳腐な言葉で表現するなら、生の実感とか、真実の生活とか、そういう言葉になるだろう。或いは美なる生活、或いは「やわらかいカオス」と表現できないだろうか。

「やわらかいカオス」

これもキャリア壊滅隊を理解する上では重要な言葉だ。しかし、説明することは難しい。強いて説明するなら、ある種の雰囲気だと言えるだろうか。ちなみに、僕のイメージする「やわらかいカオス」はラファエロ作の『アテネの学堂』に近い。

この絵はあまりに美化されすぎているようにも思えるが、「やわらかいカオス」に近いものを感じさせてくれるはずだ。

Raffael_058


結局、僕らが求めている「目的なき合目的性」とはなんなのか。

それを言葉にすることは難しい。強いて説明しても新しい名前がでてくるだけではないかと思う。

ただ、なにが違うかを言うことはできる。つまり、どうすれば、「目的なき合目的性」を得られるか。あるいは失われるかを説明することはできる。

それは目的がないことだ。それは題目のような言葉がないことだ。

そして、曖昧なものを曖昧なまま受け入れることだ。

本当に、人生には目的が必要なのだろうか? 意志は必要なのだろうか?

僕たちは無間の闇の中でも歩くことはできる。意思が伴わなくても進むことはできる。曖昧なものを曖昧なままにしておくこともできる。

多分、僕らが欲しているのは言葉ではなくて、精神そのものなのだ。

それは音楽に近い、耳を澄ましていなければ聞こえなくなってしまう曖昧なものだ。しかし、それは確かに存在するものだ。

「言葉は殺し、精神は活かす」

新約聖書にある言葉だ。僕はキリスト教のいう精神を信じているわけではないが、この言葉は真理を含んでいるものだと信じている。

結局のところ、僕たちが求めているのはある種の精神なのだ。


キャリア壊滅隊は永遠の謎だ。

それに答えようとする努力は人生の意味や生命の神秘を理解しようとする試みに比肩するだろう。あるい雲をつかむような話なのかもしれない。

さて、最後に冒頭のポール・ゴーギャンに立ち戻るとしよう。

歴史的な画家たるゴーギャンは証券会社の社員だったと言う。兼業画家だった時代の彼はあくまで絵を趣味にしていたに過ぎなかった、とか。

それが専業画家に変わってしまったのは、彼が35歳の時だと言う。株式相場で株の大暴落を経験した彼は絶対的な生活の保障などないと気づいたのだ、とか。

以来、彼は画業に専念するも作品は売れなかったと言う。

そして、西洋文明に絶望した彼は楽園を求めてタヒチへ旅立った。このタヒチでの経験は彼に物質的富をもたらすことは無かったが、不朽の名作を作らせる礎となった。

もしかすると、僕たちにとってのアウトローはゴーギャンのタヒチではあるまいか。

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