就職活動とアウトローな幻想

アウトロー:社会秩序からはみだした者。無法者。(google検索より抜粋)

断言しよう。アウトロー採用の参加者に本物はいない、と。

定義を見るかぎり、アウトローという言葉には単なる犯罪者という意味合いに収まらないものがあるらしい。

無法者はともかく、社会秩序という言葉には無限とも言える曖昧さがあるからだ。 また、lawという言葉は成文法のみではなく、慣例法という概念も含んでいる。

そもそも、社会とはなんだろうか?

実は誰もこの答えを知らないらしい。

そもそも、社会学はこの答えを見つけるためあるのだとか。つまり、社会とは誰もがわかっているが、誰も知らない概念――真理について言ったことであるようだ。

一方で「社会を知る」という概念もある。

例えば、就職。

多くの人は就職して会社に入ることを「社会を知る」と表現する。

とはいえ、社会は広範な概念だ。一つの会社とその取引先などを含む連鎖を以ってしても、社会を網羅することはできないだろう。せいぜい、業界と呼ばれる単位を表現できるくらいか。

箱詰めにされたパズルのピースを見るだけでは、パズルを完成させたとは言えないように、会社を並べるだけでは社会を知るとは言えないだろう。

ピースとピースを全て組み合わせ、一つの絵ができて初めて完成したと言える。同様に、社会も会社と会社を組み合わせた上で、全体を俯瞰して初めて社会を知ったと言えるのではないだろうか?

それでは、「社会を知る」という表現は完全に誤った表現なのだろうか?


社会の前提とも言える定義は人間と人間の間に横たわる、あらゆる関係だ。

その中にはもちろん、我々のような求職者も含まれる。

むしろ、社会に含まれない方が難しい。

霊長類として栄えたる人類はあらゆる土地にはびこり、至るところで社会を築き上げている。旅行や移住により、一時的にはアウトサイダーになれたとしても、社会の外側であり続けることは難しい。

本当の意味でアウトサイダーになるには、小乗仏教に言われるような生活をしなければならない。すなわち、他の人間の住まない林の中で生活し、孤独の中に満足を見出すことだ。

しかし、現代において、こうした生活をすることは難しい。

そういう意味では、社会契約説は既に一種の幻想だ。

社会を創り上げる以前の段階に、知性があり、言語を持ち、意思の強い人々がいたという前提は、旧時代の文明が不安定だった頃はともかく、現代では非現実的とさえ言えるだろう。

不安定な世界の象徴ともいえる文明が消えた例は、クレタ島のミノス文明以降、例に乏しくなりつつある。文明はもはや、貴族の独占物だった頃とは違い、我々の無意識にすら刷り込まれていると言えよう。

言語と文明は切っても切り離せないものだ。

文明の成長に伴って、言語もまた適応していく。それは現代においても変わらない。明治時代の文豪を参照してみると、現代の日本語は英語に近づいているように思える。

英語はもはや世界共通語だ。地球そのものがなくなりでもしない限り、この言語を持たない人間――文明を持たない人間が生まれることはないだろう。

どれほどの破壊も人間の造ったデータ全てを破壊することはできない。

よって、言語、つまりは文明がない状態は、人類が存続する限りありえないと言える。


我々の中にもアウトローな幻想――社会から脱することができるという幻想は存在していたように思う。

これはアウトロー採用の定義にも関連する話だ。

すなわち、アウトロー採用とは、「アウトローを採用するサービス」なのか、「アウトローな採用をするサービス」なのか、という定義に関する命題だ。

おそらく、運営側は後者の「アウトローな採用をするサービス」を意図していただろうと思われる。少なくとも、無法者をターゲットとしていたわけではないだろう。そもそも、本当の無法者は表に出たがらないのではないだろうか。

そして、集まった我々の大半も「アウトローな採用をするサービス」だという認識だったように思う。

しかし、大半は大半。全ての人間が同じ認識ではなかった。

こうした認識のズレは空気感という曖昧なレベルで浸透していき、「我々はアウトローである」という自意識と連帯感を作っていったように思える。

少なくとも、期待感はあっただろう。

「ここに集まった、アウトローたる我々は社会にインパクトを起こすようななにかをできるのではないか?」という期待感が。

企業セッションも終わり、全体で集まることも少なくなってしまった現在、こういう空気感は霧散してしまったように思える。

この事実こそが、我々の期待感の根底には、アウトロー採用は「アウトローを採用するサービス」だという認識があったという証明になりえるのではないだろうか。

「アウトローな採用をするサービス」へと全体が収束していった現在だからこそ、期待感は霧消してしまったのだと説明したい。

また、傍証として、T氏の脱退を挙げてもいいだろう。

彼はアウトロー採用は普通の就職活動と似た雰囲気になってきたといって、本サービスを企業セッション目前に抜けてしまったのだ。

彼がいかなる期待を持って、アウトロー採用に臨んでいたか。

それは興味の尽きないところだ。


 就職活動とは社会に対する立ち位置を見つけることだ。

これはある人から聞いた言葉だ。彼は中高一貫校で教師をしていて、相当の教養にあふれた傑物だったと思う。少なくとも、僕は上記の言葉にある程度の真理が含まれていると思っている。

こういう風に考えれば、アウトローも立派な立ち位置の一つだ。

しかし、我々含む多くの人はそのようには考えない。

それは社会秩序というものがあるからだ。秩序を乱さない、全体と調和した立ち位置を見つけることが重要であり、アウトローという立ち位置は調和という点では失格だ。

秩序は不調和を大きく嫌う。秩序の中にいる人々も同様だ。

この不調和を嫌う態度は大きな金になる。だからこそ、新卒市場や転職市場は大きな富を産むのだろう。

そもそも、不快感というのは大きな金を産む。

高収入な仕事として想像される代表格、医者と弁護士も言うなれば、他人の不快を取り除く仕事だ。逆に、純粋に快を与える仕事が大きな富になることは少ない。芸術家や音楽家などを見ればわかる。

おそらく、秩序は快よりも不快の方をより大きな問題と見なすのであろう。言い換えれば、人間は快適であることよりも、不快ではないことの方が重要だと感じるものなのだ。

これは就職活動にも言えることだ。

就職活動においては面白い人材であるかどうかよりも、無難な人材であるかどうかの方がより重視される。

その結果、ある程度のフォーマットができあがり、それに則れない者は排除されていくようになる。

これを合理的、効率的と見るかどうかは、人によってわかれるだろう。

僕はこうした活動を合理的であるとは思うが効率的であるとは見なさない。多くの場合、合理的であるため効率性を無視していると思う。

合理性の罠という言葉を聞いたことがあるだろうか?

これは合理的であるが故に、最低限の利益しか得られることがなく、かえって損してしまうという現象だ。例えば、囚人のジレンマなどがこうした状況に合致すると思われる。

つまり、合理的であることは効率的であることと同じではない主張したい。

無難な人材のみを雇い続ける得失と、優劣ある人材を雇う得失は本当のところどちらが上なのだろうか。

無難な人間を雇えば、無難なパフォーマンスを発揮してくれるであろうが、尖った人材のもたらす本当に大きなパフォーマンスは、それを飛び越える可能性があるかもしれない。

実際のところ、効率性というのは損失をも含めた得失を考える概念だ。損失が全くないことを効率的というのではない。

ある程度の非合理性を含むことが最も効率的なのだ。


積極性と消極性。

この記事のキーワードはこれであるように思う。

ただ、ここで言う積極性と消極性は意欲的であるか否かとは少し違う尺度だ。なので、ここからは積極性と消極性の説明をしていこうと思う。

ここでいう積極性と消極性を説明する代表的な例は「自由」と「幸福」だ。

積極性と消極性の文脈において、「自由」の方がよりメジャーであろうから、こちらを先に言及する。「へ」の自由と「から」の自由という言葉を聞いたことがある人も少なくないだろう。

積極的自由とは、端的に言えば、なにかをする自由のことだ。

例えば、参政権。投票や立候補するかどうかはともかく、それを行うことの自由は保障されている。他にも職業選択の自由や教育を受ける自由などが存在している。

これらは自由という言葉で表現されているものの、一種の強制である場合も存在する。例えば、職業選択の自由は就職への強制と考えられないこともない。また、参政権も投票への強制と考える風潮もある。

他方で消極的自由がある。これはなにもしないでいい自由だ。

例えば、身体の自由。これは強制的な苦役や拘束、拷問などからの自由を示している。他にも生存権などがこうした自由の代表例であろう。

この消極的自由が積極的自由と異なる最大の点は自由に対して、いわゆる義務がないところだ。生存権も殺されない自由があるだけで、どう生きようと関係はない。むしろ、自殺する自由がないとも断言できないと言えよう。

つまり、積極的自由と消極的自由の最大の違いは権利に付随する義務があるかどうかだ。これらの尺度に意欲的かどうかという一般的な積極的・消極的の尺度は当てはまらない。例えば、就職したくなくても、職業選択の自由から就職する人がいるように。

こうした積極的自由・消極的自由と意欲の関係については、ニーチェの『悲劇の誕生』でも言及されている。これはソフォクレスの『オイディプス王』についての話題でもあるのだが、興味ある人は両著とも読んでもらいたい。

簡単にニーチェの言及を説明すれば、人は最も意欲的である時こそ、消極的になり、運命の落とし穴にはまってしまい、自らの意欲を抑えた時にこそ、自分の本意に積極的になれる、と言っている。

曰く、究極の消極こそ積極性につながり、積極こそ消極につながってしまうとのことだ。

こうした言葉は示唆に富み難しいが、学ぶ価値はあると思う。こうした言葉がよくわからず、上記の本も難しそう、時間がないなどで読みたくない場合、『フォレストガンプ』という映画を見るといい。この映画は実に簡単に積極性と消極性、意欲についての関係を説明してくれている。


さて、もう一つの話題。「幸福」についての説明が残っていた。

これは上述の快不快の話とよく似ている。

つまり、積極的幸福はある種の快が得られることであり、消極的幸福はある種の不快がないことだ、と説明できる。

具体例を出すならば、ある少年がサッカーをできるだけで幸せだと感じられる場合、仮に彼が貧困に喘いでいて、明日の命の保障がなかったとしても、彼は幸福だと言えるだろう。

逆に、どれだけ恵まれていても、サッカーができないならば、この少年は幸福ではないと言える。

つまり、積極的幸福とは快がどれだけ得られるかという概念だ。

消極的幸福はこの逆だと思ってもらいたい。

少年がサッカーをできたとしても、生活が不安定で命の保障がないならば、不幸だと言えるだろう。逆にサッカーができなくても、裕福ならば、幸福だと言えるだろう。

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭を思い出させる話だ。

曰く、幸福な家庭は似ているが不幸な家庭はさまざまな顔を持つ、とか。

この言葉は「幸福」とは消極的幸福であるという前提を持っている。積極的幸福については考慮されていない。

おそらく、これは世間一般も同様で、「幸福」という場合、ほとんどの場合は消極的幸福の方を意味する。

このように言ったからといって、消極的幸福を追求した場合、意欲的になれず、結果として「幸福」にはなれないと言いたいわけではない。

「自由」と同様に「幸福」の場合も意欲的かどうかと、積極的・消極的の尺度は異なる概念なのだ。

この説明は企業活動の例から行いたい。

数多ある企業活動。その全ては意欲的活動だと僕は信じている。

極端な話、あるサービスを提供するのはAという企業ではなくてもいいからだ。B、Cという企業でもいい。この場合、名前は関係ない。重要なのは企業の提供するサービスが必要とされているかどうかだ。

こうした事情は「仕事させていただいている」という言葉に全て集約されている。これより多くのことを、僕が語る必要はないだろう。読者諸賢のみなさまの方がよほど多くのことを知っているに違いない。

だが、世にある企業活動のほとんど全ては消極的幸福の追求により成り立っていると、僕は考えている。

それはおそらく、人々は快適かどうかよりも不快感の方が強く感じるからだ。もしくは快適とは不快のないことだと感じる人も少なくないからであろう。だからこそ、消極的幸福の追求に関わるサービスの方がお金になるのであろう。

こうした事情を考慮すれば、積極的幸福とは一部の者にだけ許された特権的幸福なのかもしれない。それは経済的にも、能力的な意味でも言えるのかもしれない。

少なくとも、僕は積極的幸福を消極的幸福よりも上位の幸福だと思っている。これは多くのデータや経験などが証明してくれていたはずだ。ここで細々とした例証を出したいとは思わない。


話をアウトローな幻想に戻そう。

僕がここで問いたいのは、我々の持つ幻想は積極的なものか、消極的なものなのか、ということだ。

換言すれば、我々は就職活動が上手くいかなかったり、やる気がでないからこそ、アウトローなのか。それとも、アウトローでありたいからこそ、アウトローなのか、という問いになる。

結局のところ、我々は自身を説明する時、私は私であるからこそ、私であるというようにしか説明できない。

これ以外の方法で、自分を説明しようとする場合、その回答は不健全なものになるだろう。

我々はアウトローに、あるいはアウトローとしてあり続けるために就職するのか。

それとも、アウトローではなくなるために就職するのか。

この命題こそ、我々が本物かどうかを決める試金石だ。

また、「社会を知る」ためには、この命題に対する答えが重要だと、僕は考える。

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