ディオニュソスの果実

夜には不思議な魔力がある――そう感じたことはないだろうか。

例えば、一寸先の闇に誰かが居るような感覚。

夜にトイレに向かう時、誰も居ないはずの廊下の奥の、何かの存在を感じる。それは人でもなく、霊魂でもない、もっと怖ろしい存在だ。

疑心暗鬼。

人の心は暗闇の向こうに居ないはずの鬼を作り出す。

我々の認識が如何に曖昧かを説明する言葉として、この熟語は使われることが多い。信じる気持ちがなければ、何事も疑わしく思えるというように。

しかし、曖昧な認識はただの誤りなのだろうか。

暗闇の中に感じる気配や夜陰に紛れる人間の本質、暗夜を走る妄想と想像。

これらのものを全て、虚構と断じてしまって良いのだろうか。


『アストラル体投射』という言葉がある。

これは魔術の用語だ。

自分の想像により、自分の姿を作り出し、それに意識を投射する。こういえば、難しく感じるだろうが、もっと身近な例がある。例えば、ゲームだ。我々は三人称視点のゲームをする時、アストラル投射に近い体験をしている。

自分ではあるが自分ではないゲームの主人公を、我々は操る。

その時、我々の意識はゲームの中に入り込んでいて、画面という枠は意識の外にいく。これが投射という感覚だ。

他の例を出せば、小説やエッセイなどの文章もそうだろうか。

我々は他人の作った文法構成の中に入り込み、自身の文法を暫時的であるが忘れてしまう。もちろん、行間などで自分の意見に立ち戻るであろうが、音読か黙読かに関わらず、文字を読む時、我々は我々自身の身体を見失っている。

……いや、これは例が悪かったかもしれない。

しかし、『アストラル体投射』における「投射」という概念についてはわかってもらえたと信じたい。

つまり、一時的に自分の身体を忘れ、全く別の存在に自分の意識を写すことが、この場合の「投射」という概念だ。これは感情移入や共感という言葉にも近いかもしれない。

さて、まだ「アストラル体」という言葉が残っている。

これを説明するのは難しい。例を出さずに説明するならば、想像された自己ではない自己の姿とでも言えばいいだろうか。こんな言葉だけで理解できる人は少ないだろうと思う。

近い例で言えば、FBやLINEなどのプロフィール画像がそうであろうか。

これらの画像は自己ではないが、自己として見られるものだ。もっとも、それに意識を「投射」することは難しい。画像は平面世界の自己であり、質感を持たないからだ。

やはり、この「アストラル体」を説明する上でもゲームが望ましいかもしれない。しかし、それは主人公が居るゲームではなく、自分で主人公の姿をカスタマイズすることのできるゲームだ。

といっても、よくわからないだろうから、一つの具体的なゲームを出す。

アメーバピグだ。

これは自分の分身とも言えるアバターを作り出し、そのアバターを操って遊ぶゲームである。正直、僕はこういうタイプのゲームは好きではないのだが、好きな人は好きなのだろう。

さて、僕はこのアバターがアストラル体に近いものだと説明したい。

自分の好きな顔、好きな格好、好きな動作に、自分のアバターをカスタマイズできる。イマイチ、よくわからないという方はやってみるといいだろう。カスタマイズするということが理解できるはずだ。

もっとも、「アストラル体」も「投射」も、もっと自由度の高い曖昧な概念だ。というより、魔術自体が曖昧な概念だと言った方が良いかもしれない。

ただ、気軽かつ手軽に『アストラル体投射』に近い体験をしたければ、上記のアメーバピグをすればいいだろう。

とはいえ、これはあくまで近い体験だ。実際の体験とは質、量共に大きく異なる。

本当の『アストラル体投射』は暗闇の中で行う。

暗闇の中に自分の姿を想像するのだ。始めは図形のような想像しやすい形がいいだろう。三角でも四角でも何でもいい。とにかく、暗闇の中に形を浮かび上がらせる。

次にその形を暗闇の中で動かしてみる。縦に、横に、左右に、上下に。どう動かしてもいいだろう。ここまでは誰でも簡単にできると思う。

更に次の段階は図形の大きさを変えることだ。ここら辺から難しくなってくるかもしれない。図形の大きさを変えられても、それを保ったまま、図形を動かすことは難しいだろうと思う。

これもできると言うならば、最後は図形を大きくして、自分の身体をくぐらせるといい。

以上の全てができたならば、あなたは『アストラル体投射』ができると言ってもいいかもしれない。見る人が見れば、間違いや誤りがあるかもしれないが、僕の知る『アストラル体投射』はこのようなものだ。

さて、僕は別に『アストラル体投射』を実践してもらおうと思い、上記の文章をつらつらと書いた訳ではない。 というより、多くの人はこれをして何の意味があるのかすら理解できないだろう。

とはいえ、『アストラル体投射』の難しさは何となくわかるかもしれない。

しかし、僕は敢えて、これを説明したい。

一つ目は想像することの難しさだ。単純な図形ですら、想像したものを維持することができない。動かないものを維持することはできたとしても、動くものを維持し続けることは難しいだろうと思う。そこに形の変化が加われば、尚更だ。

二つ目の困難は、投射の難しさだ。想像した図形に自分の身体をくぐらせる。これは自分の身体を認識した上で、想像を維持しなければならない。困難はそこにある。

刺激は想像に勝るのだ。

認識という刺激は想像を打ち払い、『アストラル体投射』を失敗させる。認識のみが想像を阻害する要因ではない。『アストラル体投射』を行うのが暗闇の中でなければ、どうだろうか? おそらく、始めの図形を想像することすら難しいだろう。

ここで言いたいのは、夜が想像力を活かすということだ。

夜の暗闇がなければ、我々は形すら想像できない。

原初の絵が洞窟に書かれていたことも、これに起因するだろうと思う。洞窟の暗闇に深く潜り込まなければ、我々、人間は想像することすらできなかったのだ。

白昼に夢を見ることのできない我々の想像力は、何と貧困なことであろうか!


実は想像にも法則がある。

それは思考における論理法則や文法法則に近いものだ。一定の法則に則らないと我々の思考や想像は散逸してしまう。少なくとも、思考や想像の一貫性は保てない。

『アストラル体投射』の意義は、この想像の法則が支配する世界に行けることだ。

想像された図形たる「アストラル体」に、自分の意識を「投射」する。この「アストラル体」は想像の世界に対する、言わばインターフェイスのような役割を持ち、想像の世界の法則によりプログラミングされた世界を旅することができるようになる。

これが『アストラル体投射』の意義だ。

『アストラル体投射』をすることにより、我々は本当の意味での『想像』ができるようになる。これは白昼における想像よりも、豊かなものだ。多くのものが得られるし、多くのものが理解できるようになる。

この『想像』は俗に言うラテラル・シンキング(水平思考)に近いものだと、僕は思う。もっと言えば、同じものだと主張したい。思考とロジカル・シンキングが違うように、想像と『想像』は異なる。(以下、『想像』をラテラル・シンキングを便宜的に呼ばせて貰いたい。厳密かつ狭義のラテラル・シンキングと『想像』は全く異なる概念だが、思考に対する想像という意味で、ロジカルとラテラルの対比は理解しやすい比喩になると思う)

ロジカル・シンキングと思考の異なる点は厳密性だ。

思考はある程度、想像や憶測などの散逸があっても許されるが、ロジカル・シンキングにおいてはそれが許されない。ロジカル・シンキングでは明確な法則に則って、思考を掘り下げる必要がある。

同様の事がラテラル・シンキングと想像の間でも言える。想像はある程度の広がりで止まるが、ラテラル・シンキングにはその制限がない。法則に則る限り、ラテラル・シンキングは想像よりも深い広がりを持っている。

こういう風に考えれば、魔術あるいは『アストラル体投射』の位置づけも変わるはずだ。

それはロジカル・シンキングにおけるフレームワークに近い。もう少し言えば、ロジカル・シンキングにおける『PDCAサイクル』や『3C分析』が、ラテラル・シンキングにおける『アストラル体投射』と言えるだろう。

つまりは、魔術は想像をより深めるためのツールだと言えよう。

興味深いのは魔術もロジカル・シンキングも実践の中で磨かれてきたという点だ。

ロジカル・シンキングについて、ここで言及するのは愚かというものだろう。おそらく、僕が言うよりも読者諸賢の方がより広く知っているに違いない。

では、魔術における実践とは何か?

それを説明するには歴史を紐解かなければならない。具体的には古代史を思い出して貰いたい。

日本においては、特に卑弥呼が有名な存在だと思う。「鬼道を事とし、能く人を惑わす」。このフレーズは余りにも印象的だ。彼女は鬼道というツールを上手く使い、現在で言うビジネスを回していた。

論理に生きる人間にとって、想像に生きる人間が人々を支配することは、惑わすというより他ないだろうと思う。しかし、論理は想像より優れている訳ではない。

「言葉は殺し、精神は活かす」

ヨーロッパと中東の状況を見比べてみるといい。厳格な論理と厳密な法則で支配している中東に比べ、曖昧な言葉と親愛なる想像に支配されているキリスト教圏は何と発展していることか。

もちろん、キリスト教、イスラム教の違いだけが両地域の明暗を分けた訳ではないだろう。しかし、その影響を無視することもまた難しいはずだ。

話を戻そう。

想像には法則があると、僕が主張したいのはわかっていただけたと思う。

では、想像の法則はどのようなものか?

それに関しては、この場では断言しないでおこうと思う。ただ、二三の仄めかしをしたい。

一つは、想像の法則と夢の法則は同じだということだ。僕の言うラテラル・シンキングは夢という過程も含まれている。眠れば、すっきりするのもそのためだ。難しい問題を解いた時の達成感と夢の爽快感はこの意味において、同様だと言える。

次に、芸術の面白さと論説の面白さの違いは、想像の楽しさと思考の楽しさの違いだと言えることだ。創作の法則は想像の法則に似ていると言ってもいいかもしれない。とはいえ、法則に則っているからと言って、必ずしも面白くなるわけではない。しかし、法則に則っていないものは面白くない。少なくとも、法則に則らない作品は共感されない。

最後に、想像と思考は必ずしも背反するものではないと主張したい。むしろ、高い次元の想像は高い次元の思考を産むと、僕は考えている。こうした意味では、想像できない人間は思考力も低いと言えるだろう。逆も然りだ。

だからこそ、人間には夜と昼が重要だ。

あるいは聖と俗、秩序と混沌と言い換えてもいいかもしれない。

仏教における二諦論もこうした認識から生まれてきたのだろうと思う。もっと言えば、メリハリをつけること、公私を混同しないことは、この知見を根拠として持っている。


魔術と言えば、縁遠いものだと思われがちだ。

しかし、事実はこの認識と異なっている。魔術は思ったより、身近にある。少なくとも、ビジネスの世界ではそうであると僕は認識している。

自己啓発本なんかが、その代表例だ。

近代魔術の智慧のいくつかは、自己啓発本の中に受け継がれている。むしろ、自己啓発の根幹自体が魔術だと言えるだろう。

というのも、近代魔術における目的は自己変革だからだ。

自己の精神世界を思い通りに変え、理想の自分を目指す。それが近代魔術の理念だった。

この理念は自己実現という言葉に集約される。

本当のところ、近代魔術の目的は自己実現なのだ。特に黒魔術と呼ばれる分野はそうである。

多くの場合、黒魔術は暗闇の力を借りる。

暗闇は人間を殺し、人間を生まれ変わらせるからだ。

母なる夜があなたをもう一度産む――それこそが夜の魔力の根源だ。

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