ロマンチック恋愛論

「幼いことが日本人にとっての美徳になりつつある」

アウトロー採用に参加してから、何人かの人にこのような疑問をぶつけられたことがある。

この『幼い』というのは、外見的、内面的を問わない。そもそも、この『幼い』という概念を定義することも難しいだろう。

本当に『幼い』ことが美徳となりつつあるのだろうか?

しかし、ここでは『幼い』ことが美徳になりつつあることを前提に話を進めていきたいと思う。そのため、『幼い』の概念には触れず、僕の思う『幼い』に関連する事象・現象から、冒頭の命題にアプローチしていきたい。

実を言うと、僕はこの命題にあまり興味を持っていない。それでも、書く意義はあるだろうと思い、この記事を書いている。だから、この記事に一定以上の深みを出したいとは思っていない。僕の持つ知識を切り貼りして、命題に対する答えを暗示したいと思う。

こうした態度は、ある意味では『幼い』と言えるだろう。

そういう意味では、こうした態度で記事を書くことは本稿の意義に適っていると言えるかもしれない。僕はこの記事に深い愛着や造詣を持っている訳ではないが、それでも読む価値のある文章を書きたいとは思っている。


『幼さ』と貞操観念は結びついている。

少なくとも、幼い子供と性愛を結びつけることに抵抗を感じる人は居るだろう。子供は性欲とは無縁の存在で、純粋無垢であって欲しいと望んでいる。だから、幼性愛者に嫌悪を覚えるし、教育は義務だと考える。

実を言うと、『幼い』が美徳なのは現代の日本だけではない。それはあらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる民族で美徳とされてきた。

それでは、常に『幼い』ことは美徳なのではないか。

早速だが、この疑問は棄却したい。『幼い』ことが美徳であることと同じように、『賢い』ことも美徳であるとされてきた。『賢い』と『幼い』は対義語だ。これに疑問を持つ人も居るだろうが、そういう人は『賢い』人間と『幼い』人間の理想像を思い浮かべてもらいたい。おそらく、正反対であろう。美徳は常に理想像と共にある。

とすると、「幼いことが日本人にとっての美徳になりつつある」とは、どういう実感に基づいているのだろう?

それは比率の問題だ。『賢い』ことよりも、『幼い』ことを重視するようになりつつある。そういう実感が「幼いことが美徳だ」という認識を産み出している。

さて、話を戻そう。貞操観念についての話だ。

貞操が固いことは、どうして美徳と結びつくのだろうか?

確実に言えることは、貞操観念のない女性は性病のキャリアーになりやすいということだ。この経験的事実がそのまま、奔放な女性は汚いという認識に繋がっているのだろう。だからこそ、女性には貞操観念が要求される。

では、奔放な男性の場合はどうだろう。

男性の場合、あまり貞操観念は要求されていなように感じる。性病に関して言えば、これは自覚症状の出やすいか否かの違いだろうが、本当にそれだけだろうか。

ここで最も重要なのは、出産するのは女性だということだ。

女性は自分の子供が自分の血を継いでいるとわかるが、男性にはそれがない。そのため、男性は自分の子供が自分の血を継いでいるかどうかを疑いやすい。だからこそ、男性に対する保証として、貞操観念が重要になってくる。

現代でこそ、DNAによる照合ができるが、前時代にはそうもいかなかった。そのため、貞操を要求してもしすぎることはなかったに違いない。貞操観念が美徳であるというのは、ここら辺の認識と結びついている。

とすると、現代の日本において貞操観念が要求されているのは何故だろう。

それは子供の養育コストが高くなったことと関係している。

明治時代以前の農村は性に奔放であったらしい。象徴的な例として、夜這いなどの風習が挙げられるだろうか。猥談や乱交など、様々な性にまつわるイベントがあったと伝え聞く。

このような性に対する奔放は、子供の養育コストが低かったことが一因として挙げられる。発達途上国の現状などと同様に、子供は働き手として重宝されていた。だからこそ、性に奔放であることが重要だった。

しかし、現在は違う。

現代の日本では、子供の養育コストがとても高い。出生率もかつてとは比べ物にならない程だ。晩婚化、未婚化が叫ばれ、少子高齢化が社会問題になって久しい。

そのため、男性も女性も貞操に関して慎重になっていると言えるだろう。避妊の技術が向上したと言っても、まだまだ確実ではない。だからこそ、貞操は美徳になっている訳だ。性に奔放になった結果、多くの子供が生まれても、それを養育するだけの余裕が今の社会にはない。

マルチズム的に解釈すれば、こんなところか。


処女信仰と言えば、聖母マリアを思い浮かべる人が多いだろう。

現代の日本における処女崇拝の風潮も、明治時代にキリスト教の考えが進歩的だとされたからだ、と唱える人も少なくない。実際、恋愛観念や処女崇拝は明治維新に輸入された概念だ。

しかし、処女信仰はキリスト教における根本概念ではない。

キリスト教の象徴はあくまで、イエス・キリストだ。十字架に磔られて、贖罪をしている姿こそが、キリスト教の模範と言える。つまり、受難に耐えることこそ、キリスト教の根本概念だと主張したい。

では、何故、イエス・キリストは磔られたのか。

それは人間の原罪ゆえにである。この原罪とは本当に簡単に言えば、神を信じられないことだ。我々はわかりやすい形がなければ、何も信じることができない。石や木の像、科学的な数字や文字、力強い言葉や権力に惑わされてしまう。これこそが人間が持つと言われる原罪の根源だ。

抽象的なものを抽象的なままに捉えられないことこそ、人間の罪悪なのである。

さて、この受難のキリストの姿だが、それが能動的なものでないことはすぐにわかる。というより、磔られたキリストの姿に動き回っているイメージを持つことは難しいだろう。

何が言いたいか。

実のところ、キリスト教を信じるためには、他の何者かによる受難が必要なのだ。キリスト教が始まった当初、それはユダヤ教やローマ帝国による弾圧などといった受難があった。また、キリスト教が広がった地域も何かしらの困難を抱えている地域だった。

そういう意味では、植民地化とキリスト教化は相性がいい。一時、ヨーロッパが世界を席巻したのも、この相性の良さが一因だろう。布教を理由に植民地化を進められるし、布教の結果、植民地は植民地として甘んずることを良しとするようになる。

一方で、キリスト教が腐敗するのは、この受動的な根本概念が原因だ。

つまり、豊かになってしまえば、受難がなくなってしまうのだ。その結果、腐敗が起きる。常に原罪を意識し、その結果たる受難に耐えること――これがキリスト教には必要なのだ。

しかし、ローマ帝国もしくはビザンツ帝国がキリスト教を国教化してしまい、キリスト教は自らに必要な受難を失ってしまった。

こうした状況において、信仰を保つためには、自らで自らに受難を加える必要がある。自分で自分を罰し、自分で自分を律しなくてはならない。そのためには、モチベーションが必要だ。しかし、イエス・キリストは受難に耐えるモチベーションにはなっても、自らを律する能動的なモチベーションにはならない。

そこで産み出されたのが聖母マリアという象徴だった。この象徴は強く恋愛という概念に結びついている。

要するに、自らを律し続ければ、いつか聖母マリアと添い遂げられるのだ。この場合、罪の意識や受難は関係なく、聖母マリアへの激しい恋愛感情がモチベーションとなる。このモチベーションから生まれた概念体系が騎士道だ。騎士と恋愛、聖母マリアは密接な関係を持つ。

(もう少し言えば、これらの概念には音楽も密接に結びついている。宗教と音楽が分離したのも、聖母マリア信仰に拠るところが大きい。そういう意味ではラブソングこそ、音楽の本質を衝いているのかもしれない。)

以上の認識を踏まえると、処女信仰の根底には、恋愛に対する幻想があると考えられる。

実際、原初の恋愛感情も幻想的なものだった。一度も会ったことのない女性に対し恋心を抱き、励みにする――それが騎士道における恋愛だったのである。具体的には、フランスのトルヴェール、トルヴァドールと呼ばた中世の詩人たちを尋ねるとよい。彼らが所謂ロマンチックという観念を作った者たちである。

では、この幻想とは具体的に何か。

それは「何かしら我慢さえしていれば、最上の女性が現れる」という幻想である。この幻想があるからこそ、処女信仰を持つ者は苦難に耐え、困難を乗り越えられるのだ。

だが、現実は非情だ。

我慢して待っていても、最上の女性は現れないし、そもそも、最上の女性自体が現実には中々居ない。それでも、幻想を捨てきれない者が処女信仰を抱き続ける。

つまり、本当の意味での恋愛感情は処女信仰という形を取る。

処女崇拝者は誘惑に耐え、あらゆる困難をものともしない。その根源的な動機こそ、本当の意味での恋愛感情であり、それは「いつか聖母マリアのような女性が自分の伴侶になる」という期待に根付いている。

だからこそ、処女崇拝者は処女ではない女性を誘惑と断じて退ける。この根底には、「誘惑に負けると、理想の女性が現れないかもしれない」という怖れがあるのだ。

ここに悲劇がある。

我慢した期間が長ければ長い程、困難が大きければ大きい程、処女崇拝者の期待は大きくなり、幻想は肥大化する。その結果、期待や幻想は現実の女性に満足できなくなるのだ。

また、その逆も成り立つ。幻想や期待が現実の女性を上回っているからこそ、我慢や困難は長く大きくなるのかもしれない。

結局のところ、日本の処女信仰は恋愛至上主義に基づいている。

恋愛が過剰に賛美され持ち上げられるからこそ、期待や幻想は大きくなり、それが処女信仰に変わるのだ。

もう少し言えば、この恋愛の賛美は音楽の跋扈に裏打ちされているのかもしれない。現代日本において、音楽はそこら中で聞くことができ、それを聞かない方が難しい。「NO MUSIC, NO LIFE」というコピーはこの状況を端的に示している。

音楽の気軽さこそ、処女信仰への門戸を広げているのではないか。


最後に、女性にとっての処女信仰を述べたい。

処女信仰において、女性は試練を与える側の存在である。むしろ、女性が頑なに処女を守り続けることこそ、男性にとっての試練だと言えるかもしれない。男性は試練を乗り越え、女性の心を掴まないといけないのだ。

そういう意味では、女性は男性を選別する存在だ。逆に、男性は女性に選ばれるべく、精進しないといけない。このような役割意識が処女信仰の内にある。

難しいのは、処女信仰の構造において、女性は常に男性のモチベーションでなければならないということだ。選別されたという意識が芽生えてしまうと、男性はその時点で精進することを止めてしまう。そのため、女性は男性の欲望を刺激させ続けなければならない。

しかし、現実の刺激には限界がある。また、欲望というのは移ろい易いもので、男性は同じ女性に対して恋愛感情を持ち続けることができない。もっと言えば、女性に気安くなればなるほど、男性の欲望は萎んでしまうという現実もある。現実の女性を知ることにより、幻想が打ち砕かれてしまうのだ。

こうした状況に対し、女性は男性を適度に満足させ、適度に期待させなければならない。

いい女というのは、ここら辺の塩梅が上手い女性のことを言うのだろう。男性に自分の期待は叶えられないと思わせることなく、男性の欲求を刺激し続けられる女性こそ、いい女と言われる。

このように、処女崇拝には男性と女性の役割に違いがある。しかし、その根本的な期待は両性とも同様だ。

「いつか、白馬の王子様が現れる」

これが女性における処女崇拝への根本的感情である。女性もまた、この期待があるからこそ、貞操を守り、男性を選別し続けるのだ。そうすることが、より良い男性を伴侶とすることに繋がると、女性は信じている。また、これは現実に即さない信念ではない。

強いて言えば、この辺に女性の方が恋愛体質になりやすい理由があるのかもしれない。

処女崇拝に拠る態度は、男性に悲劇的な結果をもたらしても、女性には悪い結果をもたらさないのだ。だからこそ、女性は恋愛を過剰に賛美しがちなのかもしれない。処女信仰は女性を有利にするのである。

とはいえ、女性の期待が悪い結果に繋がる場合もあるかもしれない。

この場合は二種類考えられる。一つ目は男性に求められるも、女性が男性を拒絶した場合。もう一つは、そもそも、女性が男性に求められなかった場合だ。

後者に関しては、処女信仰の問題というより、男性の性質の問題だ。男性は内面より外見を重視する傾向があり、女性には外見的美しさを求める。これは男性の本能だ。もしかすると、こうした男性の本能も処女信仰により培われたかもしれないが、僕にはそこまで踏み込むことができない。ジェンダー論に関する知識が不足している。

前者に関しては、処女信仰の悲劇と言えよう。しかし、この悲劇は男性の場合よりも深刻ではない。

男性の処女信仰は、男性の期待を大きくし、男性を並大抵の女性では満足できなくする。さらに、その状況が男性の期待をますます肥大化させるという悪循環に繋がるが、女性の処女信仰はそうではない。

処女である期間が長くなっても、女性の男性に対する選別基準は変わらないからだ。むしろ、処女の期間が長ければ、選別基準は低下する傾向があるのかもしれない。女性には子供を産めなくなる限界がある。

もちろん、貞操観念が強ければ強いほど、女性は男性を遠ざけてしまいがちだ。しかし、これは処女信仰の責任というよりは女性の置かれた環境の問題と言うべきだろう。

処女信仰の構造において、女性は男性への恋愛感情と恐怖感を持ち合わしている。これは常に均衡が破られる可能性があるということだ。しかし、男性の場合、女性への恋愛感情しかない。この感情は現実の女性を却って遠ざけてしまう可能性がある。

また、女性が男性への恋愛感情や恐怖感を持ち合わせていない場合もあるが、これはそもそも処女を信仰していないということになるので、ここでは言及しないでおく。

長々と論じたが、最終的に僕が言いたいのは、処女信仰の構造において、女性は男性に対しアンビバレントな感情を持っているということだ。それが処女信仰における女性の利益をもたらしている。

逆に、男性の場合、女性への恋愛感情しか持ち合わせていないので、悲劇的な結果をもたらすことになると主張したい。この男女間の不平等が処女信仰の歪みに繋がっている。

恐怖なき恋愛感情こそが、狂信者を産むのだ。


貞操観念という『幼い』美徳を本稿では扱ったが、踏み込めなかった部分も多くある。

しかし、恋愛と貞操観念の関係性については十分論じられたものと信じたい。

処女信仰の下地とも言える自由恋愛による結婚は、近代に成立した概念だ。特に日本では、これが無考量に受け入れられている節がある。そのため、歪みが顕在化しやすい。

もう少し、わかりやすく言おう。恋愛には騎士道が関連していると述べたと思う。この騎士道には多くの慣習がある。恋愛の前提には、この騎士道における慣習が存在しているのだ。

とはいえ、この慣習にまで日本人は踏み込めていない。

それが男性における処女信仰の悲劇の根本原因である。

現代日本において、騎士道が理解されていないのは、そもそも、西洋人が騎士道の慣習を古臭いものと扱い、その価値を無視しているからだ。しかし、騎士道のDNAは西洋人の無意識レベルには残っており、恋愛の前提となる慣習は色濃く残っているものと思われる。

こうした騎士道の慣習を学ばない限り、日本人男性は処女信仰の悲劇に陥り続けるだろう。この騎士道は武士道と似通っている箇所もあるが、大いに違う箇所もある。処女崇拝を嘆かわしく思う者は、騎士道的慣習を処女崇拝者に啓蒙しなくてはならない。

騎士道を学ぶ道は埃臭く、無駄も多いだろう。

しかし、我々が恋愛の美しく思う限り、この道を避けて通ることはできない。

ロマンというのは、狭き門の果てにあるのだ。

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