縄×美意識

死と縄は結びついている。

特に現代では顕著だ。首つりなどは言うに及ばず、日本の死刑制度は絞首刑のみとなっている。どちらも首に縄をかける死に方だ。

しかし、絞殺に限らず、死刑となれば、縄が使われる。

例えば、銃殺。

これもなにかの間違いがないように、殺される者を縄で縛っている。また、斬首や磔などにも縄は使われていたはずだ。もっとも、彼らは囚われた時点で縛られていただろうが。

縄目につく、という表現が象徴しているように、縄と罪悪が結びついていた時代もあった。縄を蛇に見立てたりするのも、こうした感覚があったからだろうと思う。海外は言うに及ばず、日本でも蛇はケガレとして見られてきた。

しかし、現代では縄に対するイメージが変わっているのではないか。

日常生活で実際に縄を目にすることは少ないだろう。紐という形では見るだろうが、数メートルもするような長い縄を見ることは少ないはずだ。長さという点だけで言えば、洗濯紐があるが、やはりこれも“紐”であることには違いない。

それでは、縄とはなにか。縄はどこに消えてしまったのか。

本稿では、そんなことを考察していきたいと思う。


縄化粧という言葉を聞いたことがあるだろうか。

これは、いわゆるSMの用語だ。縄で縛られた女性の姿が美しく見えることから、縄で化粧するというニュアンスで縄化粧という言葉ができた。

緊縛――すなわち、人を縛ることは言葉として認知されているものの、それを実践している人はとても少ない。これは縄で人を縛ることへの忌避感が強いからというより、縛るという行為自体が日常的ではなくなったからだと思う。

では、かつては縛ることが一般的だったのだろうか。

実はそうなのだと答えたい。

ここで象徴的なモノとして挙げられるのは帯だ。和服が普段着としてメジャーだった頃、日本人は日常的に自分で自分を縛っていた。或いは他人に縛ってもらっていたかもしらない。

いずれにせよ、縛るという行為はそう遠いものではなかった。

こうして考えると、縛ることが縁遠くなったのは、風俗の変化が原因だ。和服から洋服への変化、ちょんまげが結われなくなったことなどが、パッと思い浮かぶところか。他にも変化はあるだろうが、ここでは列挙しない。

とはいえ、我々が縄を捨てたのは本当に便宜上の理由だけだったのだろうか。

縄を結ぶのは面倒だとか、縄よりも鉄などで溶接した方が安心だとか、そういう理由で縄は使われなくなったのだろうか。

僕はそういう理由だけではなかっただろうと思っている。縄が使われなくなった背景には、もう少し違う理由が隠れているはずだ。

その証拠に、縄で縛るという行為はなくなりつつあるとしても、紐で結ぶという行為はまだまだ残っていることを挙げよう。

我々の日常に結ぶという行為はありふれている。

身近なところで言えば、靴紐か。これは縛るという行為にも近いと思うが、一番身近な結ぶ行為だ。ある程度の年齢なると、毎日、靴紐を結んでいるかもしれない。

他にも例は多く挙げられるだろう。それを列挙する必要はないと思いたい。まさか、紐の結び方を知らない人はいないだろう。

それでは、縛ると結ぶにはどのような違いがあるのだろうか。


縛るという行為は儀式に近いものがある。

靴紐を結んで、気の引き締まる思いをしない人は少ないだろう。むしろ、意図的に固く結んで、気合を入れる人もいるかもしれない。

結ぶという行為と気が引き締まるという精神状態は密接に結びついている。

別に、この事実は意外なことでもなんでもない。

緊張した時に身体が硬くなったり、肩が凝ったりする――その現象を意図的に起こすことが縛るという行為なのだ。縛るという行為は自分の身体を緊張させるという行為に他ならない。

「勝って、兜の緒を引き締めろ」

この一文は如実にそのことを表している。緒という言葉も日本人にとっては、重要な表現だ。人間自身や人の運命、人の縁などといったことを端的に表現している。

また、縛るという行為には自分を戒めるという意味合いがあった。

例えば、道着の帯の結び方だ。道着を着る時、帯は二重に結ぶことが一般的になっている。しかし、機能面だけで言えば、帯は一重で十分だ。ベルトのように身体に一回りさせれば、衣服を肌蹴させないという目的は果たせる。

それでも、帯を二重に結ぶのは自分を戒めるという意味合いが強いからだと言えよう。このことは確か、孟子に書かれていたと思う。

列挙したように、縛るという行為は単に機能的である以上に、精神的――すなわち、儀礼的な意味合いが強いと言える。

この儀礼というのは、そもそも何か。

それを一言で言うならば、文化的・歴史的に築かれてきた身体所作だと言えよう。歩き方、走り方、座り方、立ち方など、最も基礎的な身体所作から握手などの文化的な身体所作まで、あらゆる所作を定義したものが儀礼だと言える。

別に難しい話をしたい訳ではない。

ドアを開ける時、ドアノブを回すことや食事を摂る時、食器を使うことなど、あらゆる身近な動作は儀礼によって決められてきた。つまり、儀礼というのはごくごく身近なものだと主張したいだけだ。

このように考えていけば、動物と人間の違いは知性の問題というよりは、儀礼を持つことができるかいなかといったところに関わってくるだろう。言葉、所作などを後天的に覚えられるかどうかとも言い換えていい。人間が人間である条件には、言葉と所作を学習できることが含まれている。

所作を覚えられるかどうかは、知性を持つかどうかよりも重要だ。

言い換えると、躾られた人間はより高い知性を持つ人間よりも好ましく思われやすいと表現できるだろう。躾けられていない人間はたとえ賢かったとしても、好ましく思われない。

躾や儀礼、縛るという行為には、知性にはない身体性がある。これはまた、縛ると結ぶの違いでもあろう。この身体性こそが、躾けられた人間と賢い人間との好悪の違いを産む要因だ。

ここで言う身体性とは、実際に身体を動かすかどうかだと言ってもいいだろう。或るいは自己に対し、どう見られているかという意識があるかどうかが身体性と言ってもいい。

縛る行為にも身体性が存在する。

それは縛られる自分の肉体に対する意識だ。靴紐でも、帯でも何でもいい。縛るという行為をする時、人は縛られる身体の一部に対して、何かしらの意識を持っている。

逆に結ぶという行為には、これが存在しない。

結ぶという行為の場合、結ぶ対象、結ばれる対象よりも、何によって結んだかというところに焦点がいきやすい。多くの場合、結ぶという言葉を言われて、第一に思い浮かぶものは紐の存在だろう。これ以外を思い浮かべる人は少ないと思う。

というのも、「結ぶ」という言葉は元々、ある状態を表現する言葉だったからだ。

ある状態というのは、結び目のイメージに限りなく近い。殆ど同じと言ってもいいかもしれない。ただ、「草を結び、庵となす」という表現があることも注意してもらいたい。こうした表現も鑑みると、「結ぶ」というのは、ある二つのものが、継ぎ目をもって繋がった状態と説明するのが一番か。

一方、「縛る」という行為は純粋に動作を表している。

縛る人と縛られる人。そこでは、何で縛られているかなどは問題とならず、純粋に行為する者と行為される者が重要視されている。

「自縄自縛」、「地縛霊」という言葉があるように、実際に縄で縛られているかどうかは「縛る」という行為には関係ない。「縛る」の要件には、行為する者とされる者――主体と客体の二つこそが重要となっている。

この主体と客体に対する意識こそ、身体性に他ならない。縛る自分と縛られる自分。この二つに対する意識が緊張を産み、抑制を作る。

その結果、我々、日本人が深層に持つ伝統的な美意識が生まれるのだ。


儒教的な美徳と縛るという行為は密接に関係している。

上述の孟子にもある通りだ。帯でもって、自分を縛るということにこそ、我々は緊張と抑制を見出してきた。これは侘び寂びにも近いものがある。侘び寂びも抑えられた中に甘美を見出すからだ。

つまり、「縛る」という行為には一種の美意識が存在する。

ここで再び出したいのは先述の縄化粧だ。

人間が人間をどのように縛るかによって編み出された技術体系こそが、現代日本のSMにおける緊縛だと言えよう。実はこの緊縛は日本独自の文化であるらしい。

元は、高貴な身分の人間と下々の者を縛る方法を変えようとして、できた技術体系なのだとか。

冷静に考えると、全く共感できない話なのだが、上述のことを思い返して欲しい。縛るという行為には元々、儒教的な美徳が含まれていたのだ。そのため、人を縛る方法も工夫をして、何かしらの意味でより良くしようと思うのは無理もない。

現代でも、賢さをより良くしようとしたり、効率性をより良くしようとしたりして、怪しい自己啓発などに迷走している人も多くいる。縛る技術体系ができたのも、そうした迷走の一種だと考えてもらえれば、わかりやすいだろう。

もう少し言えば、人が縛られる時、そこには大抵、死の臭いがつきまとう。死の臭いとは、具体的に言うと、処刑や犯罪などが挙げられるだろう。或いは戦争を挙げてもいいかもしれない。

死の臭いにこそ、日本人は美を求めてきた。

あっと言う間に散ってしまう桜を愛でるのも、この死の臭いがつきまとうからこそだ。季節の移り変わりや若い頃の容色など、死の臭いを感じさせる事象は数多くある。先述の侘び寂びも或いは死の臭いを忍ばせているかもしれない。

そういう意味では、縛る行為に美を見出してきたのも、日本人にとっては当然の成り行きだと言えるかもしれない。切腹や斬首など、侍と呼ばれる人種にとっては最も美しいと感じる場面において、縛りは目立つ位置にある。ここに美を見出さなくては、何処に美と求めるか、と唱えてもいいかもしれない。

桜の散るような甘美さで、自らも死ぬる。

これが日本人の伝統的な美意識だと表現してもいいかもしれない。

もっとも、このような伝統は既に失われてしまっているが。


現代日本では、死の臭いが入念に排斥されている。

それこそが縛るという行為が身近ではなくなってしまった原因だろうと思う。現代人にとって、縛るという行為は排除すべき悪しき旧弊なのだ。だからこそ、日常生活から縄はなくなり、鉄が増えてしまった。

しかし、それでも縄は死と甘美とに色濃く結びついている。

首吊り自殺こそ、その典型だと言えよう。

死こそ、最大の救いだと信じ、自殺しようとしている人々は縄で結ばれた輪の向こうに侍を見出しているのだ。だからこそ、首吊り自殺という方法を採って、自ら死のうとする。それは中世から刻まれた、我々、日本人のDNAだと言ってもいいだろう。

もちろん、自殺を賛美したい訳ではない。

しかし、死の中に美を見出す人は少なくないだろうと思う。「死ぬ気でやれば、何でもできる」という言葉には、この美意識が強く表れているに違いない。こうした言葉に感化されない人は少ないはずだ。むしろ、多いだろう。

こうした死に対する美意識こそ、首吊り自殺の中には表現されている。

さて、最後に、縄とは何かについて述べたい。

冒頭に書いたように、縄は蛇にも見立てられ、ケガレだと考えられてきた。しかし、縄は単純にケガレているものだと扱われてきたのではない。

「禍福はあざなえる縄のごとし」という表現にもあるように、縄は人生もしくは運命にも見立てられてきた。また、仏教にも縄に対する同様の見方がある。仏教における「縄」とはしがらみのことで、縄を断ち切るように俗世のしがらみを断ち切れという意味の聖句も書かれている。

また、もう一つ、縄の伝統的な使い方があるのを知っているだろうか。

それは注連縄だ。神社や聖域などを俗世と隔てる時、その境目として縄が使われている。これはある意味で土地を縛っていると言えるのかもしれない。(実を言うと、神を土地に縛らなくてはならないというのは、日本人のメジャーな考え方なのだ。詳しくは御霊信仰などについて、調べて貰いたい)

こうした考え方に基づけば、縄は単純にケガレているではなく、ケガレたものを封じ込めているからこそ、ケガレているのだ。そういう意味では、縄は隔てるものとしての意味合いが強いのかもしれない。

隔てるものとしての縄を考えると、首吊りというのは、別世界に行きたいと考えるからこその行為なのかもしれない。縄で結ばれた輪の向こうには別世界が存在するのだ。

逆に、自分で自分を縛るという行為には、自分を封じ込めたいという欲求が隠れているのかもしれない。「自縄自縛」という概念的な縛りにおいても同様だ。

自分を封じ込めたいという欲求が、具体的にどういうものであれ、そこには美意識が隠れていると思う。こうするのは良くない、格好悪い――そういう感覚があるからこそ、人は自らを縛るのだ。

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